プロローグ
今を遡ること、およそ500年。
福井県一乗谷。
朝倉孝景がここを朝倉家の居城の地と定め、5代103年に亘ってその栄華を誇った。
一乗谷は、福井市街の東南約10kmのところにある。
南北約3km、東西は山々に挟まれた谷間で、北の幅の最も狭くなったところには、敵が一番侵入しやすい場所であることから、高さ4m・長さ38mの土塁と重さ45トン以上もの巨石をクランク状に配することで、外からは中の様子が見えないような造りとした。
ここを『下城戸(しもきど)』という。
それとは反対側の、南の端の幅が狭くなったところにも高さ5m・長さ100mもの土塁を造り、これを『上城戸(かみきど)』とした。
そして、『下城戸(しもきど)』から『上城戸(かみきど)』までの約1.7キロ、ここが『城下町』で大変な賑わいとなっていたのである。
この城下町には、朝倉家の居城はもちろんのこと、重臣達の屋敷や商人・町民の家が立ち並んでいた。
主君・重臣・商人などがひとところに住しているというのは、当時としては極めて稀なことであった。
『一乗谷は、朝倉家が居城となすのみでなく、ここに住む全ての人々が自分の才能を活かしながら共に幸せに暮らす』、という朝倉の思いをよく表わしている城下町であった。
朝倉家の出自
103年もの間、『北陸の小京都』とも呼ばれるほど栄え賑わう一乗谷を造り上げた朝倉家。
実は、朝倉家は、第9代開化天皇の子孫とも、第12代景行天皇の子孫とも、第36代孝徳天皇の子孫とも言われている。
いずれにしても、天皇家の出ということだ。
その昔、孝徳天皇に表米親王(おめしんのう)という皇子がいた。
表米皇子(おめのみこ)は、襲来してきた新羅の盗賊退治の大将に命じられ、これを退治したが、帰路、大嵐に遭い舟には大きな穴が。
もうこれまでか、と思った時に、突如、龍神・諸神と共に粟鹿大明神が目の前に現れた。
そして舟に空いた穴には、無数の大アワビが張りつき、舟は沈むことなく、表米皇子(おめのみこ)は助かることができた。
表米皇子(おめのみこ)は、このアワビ一つを懐にいれて持ち帰り、赤淵大明神として丁重にお祀りしたのである。
のち、今の令和の時代に至るまで、『朝倉』の子孫は決してアワビを食してはならない、という言い伝えを約500年も守り続けているのである。
この大嵐の時に出現した粟鹿大明神だが、
『朝倉始末記』によると、
虚空の白装束の上 紫威(むらさきおどし)の鎧を着た神 現れ、声高く『王土を侵す賊徒退治の為、諸神この浦に赴く。
われは是、但州 朝倉に垂れて守護神となる正一位 十二候 粟鹿大明神也』
と。
『白装束』に『紫威』ということは、つまりは粟鹿大明神とは、お稲荷さんといえるのではないだろうか。(諸説あり)
そういえば、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館で『越前朝倉物語 ~ 一乗谷にまつわる物語と伝説 ~』の展示があった(今回の新型コロナウィルス感染防止に伴い会期途中から中止になってしまったが)。
そのチラシには、なんと、『一乗谷のキツネ 江戸へ行く』と!!
キツネ = お稲荷さん ではないが、それでもやっぱり朝倉家とお稲荷さんとの深い関わりを感じざるを得ない。